記憶の断片小説「卒業」(7)

記憶の断片小説ロードムービー「卒業」(7)

外は春の雨が降っていた。夏を告げる雨が降っていた。

その頃の俺は、アトピーの症状が一番に酷い時期だった。
剥がれ切らない角質と落ちきらない体液が段層を為していた。
とても見られた顔ではなかった。
常に顔中から黄色い体液が滲み出し、触れれば鋭い痛みが走る。
俺は、そんな自分自身の肉体を心から恨んでいた。
こんな体に生んだ両親を憎んでいた。
詩は4Bのシャープペン芯では無く、4Bの鉛筆で書き殴る様になった。
自分の精神を死なせない為に必死で書き続けた。

俺は留学の為に、TOEFLの勉強をしていた。
勉強の合間に時間を見つけては、ライチにメールをしたり、電話をしたりした。
同時にその頃、普通自動車免許を取る為に、実家の近くの自動車学校に通っていた。
その帰り、必ず電話していた。
モーニングコールをしていた時期もあった。
朝一番のライチの声は、寝ぼけた、少し絡みつくような甘ったるい声だった。
楽しかった。
距離があれば、俺は純粋にそれらを楽しむ事が出来た。

俺は懸命に、下手な台詞を並べては、ライチを口説こうと必死だった。
同時に、ユキとも頻繁にメールをやりとりする様になっていた。
電話もするようになった。
だけど会話は続かなかった。
何の為にしているのか、俺はわかっている。
それを隠し通して、ユキとのメールや電話を繰り返した。
俺にとって、ユキはライチを嫉妬させる為の捨て駒でしかなかった。
全てはライチの為に。俺の全ての力はライチの為に注がれていた。
金も、時間も、思考も、詩も、黒鉛も、消しゴムも、ノートも、全てが。
全てがライチの為だった。
捨て駒さえも上手く作れない俺自身に苛立ちを憶えた。
俺は一人ぼっちだった。

ライチはなかなかこっちを向いてくれない。
ライチが見ているのは、俺じゃない。「憂治 誡」なのだ。
詩を書く「憂治 誡」なのだ。悔しいじゃないか、それは俺だというのに。
いや、違うのだ。
違う。
あの詩を書いた「憂治 誡」は、ここにいる俺と同一人物では無いのだ。
それに気付けなかった、俺の、敗北。
俺達が会う日は、大抵雨が降っていた。

五月、六月。
雨ばかりだった。何時も雨だった。

***

数年前、雨の降る朝にライチの夢を見た事がある。
うす明るい雨の降る道を、二人で歩く夢だった。
俺はそんな夢を見た事が悔しくて泣いた。
雨にそこまで反応してしまう自分自身が情けなくて、悔しくて、泣いた。
雨は、嫌いだった。

***

とにかく、雨が夏を告げるまで、雨ばかりだったと思う。
梅雨前線が東京を越え、北上して行く頃には、もう夏の匂いがし始めていた。

千歳烏山で会った日も雨だった。
病院の帰りに、少し時間を作った。
烏山を歩いて、チェーン店で僕は牛丼を、ライチはカレーを食べた。
その日は初めてライチの家を訪れる予定だった。
だが、なかなか家を空ける様子の無いライチの母親を疎ましく思っていた。
彼女の母親は、本来なら家を出て医学会に向かっている筈の時間。
だが原稿が終わらず、ギリギリまで書いているとの事だった。
俺は時計を睨みつけながら、割り箸を弄んでいた。

結局、その日は彼女の家に行く事が出来なかった。
先延ばしにされた、快楽の時間。待ち遠しい、笑み。
京王線の駅でキスをして、東京駅まで一緒に向かう。
電車の中で、俺はずっとライチの乳房を触っていた。
東京駅改札を出る前に、俺は再び口づけをした。
期待していた快楽には遠く及ばぬ、快楽。
もうライチが笑っていたかも確かじゃない。

後日、また俺が上京して病院に行った時の事だ。
翌日、日中にライチの家を訪れる約束をしていた。
病院に行ったその日は友人宅に止まり、近況を少し語ってから眠りについた。
寝る前に、何となく言った。
「明日、俺、女をセックスするかも知れない」
翌朝起きると、ベッドサイドにエナジードリンクが置いてあった。
友人は布団の中から手だけを伸ばし、それを指差した。
「ありがとう」
友人は親指を突きたてて、また眠りについた。
俺はそれを鞄に放り込んで、ライチの住むつつじヶ丘へ向かった。
出勤する為に駅に向かう人々とすれ違いながら歩く。
時折、俺の顔を見てギョッとした表情を浮かべて、慌てて他所を向く人間もいる。
俺は薄笑いを浮かべて、煙草に火をつけた。
アトピーをやってから、世界が裏返って行く瞬間なんざ嫌と言う程見た。
それでもライチは俺といてくれた。
ライチだけは違った。

この日は、御題を決めてイラストを書いてくる、と言う遊びをやっていた。
御題はスピッツの歌「スパイダー」。
俺のイラストはhideの「ピンクスパイダー」になってしまっていた。
結果、その遊びは一瞬で終わった。

初めて入った彼女の部屋で、何かの匂いを嗅いだ。
ライチの匂いを凝縮した様な匂いだった。
だが俺は何も言わなかった。
ライチの卒業アルバムを開いた。
ライチの同級生の話、俺の字に似た癖字の女の子の話、色んな話。
ハグ、キス、ハグ、キス、突き放す、微笑み。
ライチは唐突に言った。
「今日はしないわ」
俺は落胆を隠さずに返した。
「そうか」
「今日のあなたは、ギラギラし過ぎているから」
「そうか」
「口でならしてあげる」
彼女は俺をベッドに横たわらせて、俺の怒張を口に含んだ。
俺は彼女の口内に劣情をブチ負けた。
そして口からそれを出すライチを見ていた。

帰り道、俺は昨日泊めて貰った友人にメールを送った。
「今日は何の日?」
「どうだった?」
「正解は仏滅」

笑いを忘れない道化師は、一体何を考えていたのだろう。