記憶の断片小説「卒業」(3)

記憶の断片小説ロードムービー「卒業」(3)

立秋も過ぎたと言うのに、まだ厳しい暑さは続いていた。
相変わらず、俺の皮膚はボロボロだった。
道を行く人達が、時折振り返るくらい酷い荒れ方だった。

その日、俺は朝早くから、祖母の引越しを手伝う家族に嘘を付いて家を出た。
待ち合わせ時刻の30分前には、新宿駅南口改札の前に突っ立っていた。
せわしなく煙草を吸っては、携帯灰皿に押し込む。

携帯を何度も開いては、時間が過ぎていくのを確認する。
珪肺灰皿が吸殻で膨らんでゆく。
初デートだと言うのに、家族に嘘を言って出てきた俺は、適当な格好をしている。
適当なTシャツに、ハーフパンツ。穴の空いたコンバース。

俺はそわそわしながら待っていた。この格好で来た事を後悔していた。
何度も携帯を開く。何度もライチからのメールを開く。
「俺に、興味がある…か。」
独り言を漏らす。
ライチは遅刻してきた。

日曜の朝の新宿は、いつもと違ってやや閑散としている。

少しだけ回転速度の落ちた街。しかし、それもやがて休日の熱気に飲み込まれる。
その証拠に、沢山の人が歩き、車が走っている。

ライチは、ジーンズ生地のロングスカートを穿いてやってきた。
俺を見て、少し笑った気がした。

しばらく歩いて、確かエクセシオールに入った。
しばらく、他愛の無い話をして時間を潰した。
詩の事。感覚の事。見えている世界の事。人間の事。
今までそんな話をしてこなかった俺は、とても楽しかった。

ライチの話だと、ヨシトは今日、新しい携帯を買いに新宿に来るらしい。
そしてヨシトは、俺とライチが会う事を、ライチから聞いて知っている。
もしかしたら、すれ違うかも知れない。
俺はヨシトなんて恐くなかった。喧嘩になっても負ける気は微塵も無かった。
ただ、自分が優先された様で気分が良かった。

俺とライチは、隣に座ってた客が逃げ出すような、痴話話、下世話な話をした。
セックスの事。サディズムの事。マゾヒズムの事。
俺はライチに犯されたかった。
しかし、それは許されない。まだ、関係は友達でしかない。

***

「あの時、私はあなたに犯されたかったの」とライチは言った。
新宿のエクセルシオールで話した日から、だいぶ経ってから、唐突に言った。

***

「私はあなたに興味があるわ」
「そう。どれくらい?」
「ヨシトとセックスしてる最中に、あなたの詩をソラで頭の中で思い出せるくらい」
「そう」
俺は平静を装って答えた。だが、気分は高揚していた。
俺は、勝利の片鱗を掴んでいる事を知ったからだ。
セックスの最中に、俺が書いた詩を、冷静に脳内で暗唱出来る。
ヨシトにしてみれば随分な話だ。
しかし俺にしてみれば、彼氏よりも俺の詩を選んだと言う事はつまり、俺の勝利を意味している。
愛の表現のひとつである、セックスの最中において、他人の愛の言葉を思い出す。
ヨシトの、敗北だ。
しばらくして、俺たちは飯を喰いに言った。

ライチの予定上、時間は限られている。なるべく無駄な時間は過ごさないのが得策だ。
半地下のスパゲッティ屋は、俺が美術学校の予備校に通ってた頃に行った店だ。
昼間はソフトドリンクが飲み放題で、これが嬉しくて通っていた。
今考えれば、金のある美術予備校生だと思う。
偶然だが、一番奥の席に通されて、ちょっといい気分だった。
個室っぽさが、とても嬉しかった。隔離された感覚が心地よかった。
それぞれメニューを注文して、軽い談笑をする。
流石に、飯屋で先ほどのような下世話な会話は出来ない。
俺は真面目にライチの話を聞いていた。
ライチは俺に、興味がある。
詩を書く俺に、興味がある。

***

俺は舞い上がって冷静さを欠いていた。
いや、例え冷静であっても、考えもつかなかっただろう。
ライチが興味を持っているのは、「詩を書く男、憂治 誡」であり、
その男は「ヨシトの友達」と等しい存在じゃない。
別人なのだ。

ライチは「ヨシト」と「憂治 誡」の間で、板挟みになっていた。

***

ライチは聞いた。
「こんな私を、あなたはどう見ているの?」
俺は答えた。
「崩れ落ちていく君は、とても素敵に見えるよ。」
ある歌の一節を、そのまま答えた。通じたかはわからない。
俺が数年前に、よく知らないサイトに寄稿して隠しリンクにされていた詩すら調べ上げる女だ。
俺の聞く音楽くらいとっくに知っていて、それでも微笑んでいてくれたのかも知れない。

何にせよ、彼女は微笑み、こう言った。
「今、あなたに髪を触られただけで、イっちゃいそうなの。」
撫でる、と言う行為にすら及ばない、触れただけで、と言う。
俺に?この、俺に?このツラの、俺に?
その時の俺は、精一杯の笑みで彼女を見つめていただろう。
喜びと、混乱が入り混じった表情だったに違いない。

その時、ヨシトからメールが来た。
「楽しんでいるかい?」
そんなメールだった。新しい携帯を買えたのかどうかは知らない。
「お陰様で」
とだけ打って、即座に返した。そのメールに返事は来なかった。
そんなヨシトを、二人で笑った。

飯屋を出たライチは、階段で何度か躓き、信号で大きく躓いた。
体調が悪いのか聞くと、ライチは「感じている」と言った。
よくわからない、と言う顔をしていると
「男だって勃起してると前かがみになるでしょ?それと同じよ」
ライチは電信柱にもたれて、一息ついてから笑って言った。
その動作が何を意味するかもわからなかった。

手ゴメにするなら今だぜ…とライチに暗に言われているのに、俺は手を出せないでいた。
俺は女性が怖かった。未知の生物に触れるような感覚だった。
俺には何も出来なかった。何をどうすれば良いのかもわからなかった。
駅まで、そんなライチを見ながら歩いていた。

駅前での別れ際、よっぽどキスしたい衝動に駆られたが、何とか抑え込んだ。
友人の女にそこまで手出し出来無いし、人前でどうしていいかもわからない。
ライチに犯されたいと言う不徳を、友人の女であると言う道徳を理性で諌めたに過ぎない。
だが、その理性をちょっぴり超えた春情が、俺の手をライチの髪に伸ばさせた。
ライチが崩れるようにしゃがみこんだ。
「え?どうしたの?大丈夫?」
本気で心配する俺に、ライチは笑って答えた。
「ちょっとだけ、イっちゃった」
俺は黙って笑うしか無かった。ライチの言うそれが何かすらわかっていない。
ライチを立たせて、改札の奥に消えて行く姿を見送る。

気色悪い顔をした俺は、気色悪いであろう笑みを浮かべて新宿を去った。
心の中で、ヨシトに対する勝利の拳を上げた。
まだ、夏の匂いが色濃く残っていた。