記憶の断片小説「卒業」(1)

記憶の断片小説 ロ―ドム―ビ― 「卒業」
ニジムラリョー

死ぬか生きるか、それが問題だった十年前の僕らへ。

目を覚ます。朝が来た事を呪う。文字通り、枕に張り付いた顔を引き剥がす。
ぺりぺりと小さな音を立て、枕に血と黄色い体液を残した顔が剥がれる。
連続する小さな痛みが顔中を支配する。
朝から酷く陰鬱な気分になる。
リビングでは、同居している祖母が、テレビをみながらラジオ体操をしている。
俺はラジオ体操第二のメロディが嫌いだった。

何故かわからない。だが、とにかく嫌いだった。
元気に踊る祖母の脇を通り抜け、風呂場に立った。
勢いのないぬるいシャワーで、乾いて体中に張り付いた黄色い体液だったものを洗い流す。
新鮮な傷口に水が染みる。痛みは全身に広がる。
食いしばった歯の奥から、うめき声をかすかに漏らす。
毎朝の日課。朝なんて来なければいい。
アトピーでボロボロの肌をかきむしった。

JR中央線を三鷹駅で降りると、油蝉が大声で泣き喚いていた。
汗とも体液ともつかぬ水分が体の表面を流れ落ちる。
シャツは既に水分で変色していた。
太陽が、ジリジリと皮膚を焼き付ける。いっそ焼き尽くしてくれれば良いのに。
俺はゆっくりと歩き出す。街路樹の木陰は真下に伸び、大して意味を為さないでいる。
初めて歩く通りを三往復して、俺は立ち止まった。
美大を目指している友人が初めてながら個展を開くと言うので来た。
が、目的の店が分からない。

仕方なしに煙草を取り出し、火をつける。
目の前を通り過ぎた同い年くらいの生徒達が、近くの予備校校舎に飲み込まれていくのを見ていた。
煙草を靴の裏でもみ消して立ち上がると、個展を開いた友人が自転車を押しているのが見えた。
俺はゆっくりと歩き、自転車を押した痩躯の長髪男に声をかけた。
「ここか。迷ったよ」
「あぁ、そうだろうと思った」
イトーは悪びれるふうも無く、笑いながら自転車に鍵をかけて、店の中に入っていった。
俺も黙って後に付いていった。

アトリエスペースは既にイトーが書いた絵が飾られていた。
何故か包帯などもぶら下がっていたが、柔らかい雰囲気の絵と調和していた。
長髪は机の上にノートと鉛筆を転がして、「お名前と感想を頂ければ倖いです」といった事が書かれた札を立てた。
俺はその様子を黙って見ていた。イトーが振り向いた。
「ねぇ、最初に名前と感想、書いてよ」
「俺が、か?」
「だって、最初の客だもの」
「そうか」
俺はイトーから鉛筆を受け取り、担任の似顔絵と名前を書いた。イトーは少しだけ笑った。
他愛の無い話をしていると、乱雑な足音と共に、大きな鼻の一重瞼男が入ってきた。
俺とイトーは立ち尽くす一重瞼の男を見た。同級生の男だった。
鼻は笑っていた。
「よう。暑いな、今日も」
何が面白いのか、ゲラゲラと笑っている鼻に、やはりイトーは鉛筆を渡し、何か一言と名前を書かせた。
鼻はノートに短いコメントと「ヨシト」と言う名前を書いてから、ぐるりと作品を見回した。
そして再び「暑いね、今日も」とだけ言った。続けて「茶でも飲もうぜ」と言った。
イトーは頷いて、アトリエを放置して三人で茶を飲みに出た。
外はまだ、油蝉が大声で泣き喚いていた。

イトーの個展が開かれているを出て、駅前に戻る。開いたばかりのドトールに入る。
頼んだアイスコーヒーを氷ごと飲み干した。
イトーはゆっくりと飲んでいる。鼻もまだ半分程残している。
俺はレジに戻り、レモンシロップと冷水を貰った。レモン水を作ってそれも飲み干した。
汗がまだ止まらない。流行っている海外の茶色い煙草に火をつけた。
毒にも薬にもならない話で時間を埋めてから、吉祥寺で遊ぶと言う流れになった。

吉祥寺で電車を降りると、ヨシトは立ち止まり、「電話が来る」と呟いた。
その三秒後に電話が鳴った。
ヨシトは自慢げに「ほらね?」と言った。何が「ほらね」なのだかはよくわからなかった。
ヨシトは電話を指差してから、小指を立てた。イトーが鼻で笑った。俺は煙草が吸いたかった。
ヨシトは電話を切ると、「まだ時間がかかるみたいだ」と言った。
「彼女?」俺はとりあえずで聞いた。聞くのも鬱陶しい質問だった。
ヨシトは自慢げに頷いた。

その間、俺たちはゲーセンで時間を潰す事にした。
俺は特にゲームが上手い訳では無いので、ヨシトがプレーするのをイトーと眺めていただけだった。

ヨシトが大きな画面に向けて、プラスチック製の銃を振り回している間に、ヨシトの女が来た。
ヨシトが以前、授業中に描いて寄越した似顔絵とは似ても似つかぬ女だった。
別段、ヨシトの絵が下手な訳でも無く、女が不美人な訳でも無かった。
ただ似ていなかった。度の強いメガネの所為で、目が小さい女だった。
「ライチの様な女だな」と思った。理由は今でもわからない。
ヨシトがゲームをクリアして、プラスチック製の銃をケースに収めた。

四人はゲーセンの近くで茶を飲む事にした。
ヨシトとイトーが椅子に座り、俺とメガネが壁際のソファに座る事になった。
男子校生だから、思春期だから、肌がボロボロだから。理由はひとつでは無いだろう。
俺は心臓が強く跳ねるのを感じていた。妹以外に、女と言う生物を知らないからだ。
俺の隣に座っているメガネを観察した。
色んな国旗のプリントが入った長めスカートがやけに目に焼き付いた。

会話は殆ど聞こえていなかった。
ライチの家庭に何らかの問題がある」らしい事は理解した。
ヨシトの家にも何らかの問題があるらしかった。
イトーの家にも何らかの問題があるらしかった。
俺の家の問題は、俺だった。
俺は、ライチを笑わせてやろう、と思った。
店を出て、「なぁ、俺、あのメガネを笑わせてやろうと思ったよ」とイトーに耳打ちした。
イトーは少し間を置いてから「うん、でも、気をつけてね」と言った。
俺には、その言葉の意味がよくわからなかった。いや、わかっていたのかも知れない。
とにかく俺は、俺とイトーの前を歩く、ヨシトとライチの後ろ姿を見ていた。
ライチの長いスカートが、熱風に吹かれて少しだけ踊った。