記憶の断片小説「卒業」(2)

記憶の断片小説 ロードムービー「卒業」
ニジムラリョー

(2)

当時、俺は「憂治 想人」と言う名前を使い、詩を書き始めていた。
特に同人誌を出版したりする訳では無く、ただ大学ノートを埋めていただけだった。
時々ネットでも、投稿サイトに詩を載せたりしていただけで、大きな活動はしていなかった。
そしてノートを埋めては、ヨシトやイトーに見せていた。

まだ厳しい残暑が続く中、新学期が始まった。
相変わらず俺の肌はアトピーでボロボロだった。
朝を呪いながら顔を枕から引き剥がした。
うめきながらシャワーを浴びていた。

薄い大学ノートは、詩と言う名前の呪詛と強がりで埋め尽くされていった。
俺は救われたかった。この物理的な苦痛から開放されたかった。
毎晩、明日の朝が来ない事を願い、起きては朝が来た事を呪う生活を憎んでいた。
だけど死にたくなかった。誰かがいてくれれば、耐えられる気がしていた。

ある日、俺は意を決して、ヨシトに言った。
「ライチにも、俺のノート、読んで貰えないかな」
ヨシトはマンガを書いている手を止めると、顔を上げて笑った。
「もちろんさ、兄弟。今日会うから、さっそく渡すよ」
ヨシトは俺の肩を叩いた。俺は曖昧に笑った。
お前の様な兄弟は要らない。俺が欲しいのは…。

幾晩か、俺は翌朝が来る事を願った。
少しの間だけ、朝を呪わなくなった。
ただ、痛みだけは現実だった。

昼休みのチャイムが鳴った。
俺は教室を飛び出して、美術準備室に向かった。
イトーとヨシトが弁当を食いながら喋っていた。
ヨシトは俺の顔を見ると、口角を上げて笑い、俺にノートを返した。
ノートの余ったページに書かれていた感想文は、とても長かった。
俺は久しぶりに笑った。
ひとつひとつの詩をきちんと読んで、受け止めて、考えて書かれた感想文だった。

それから幾度か、ヨシトを通して、俺とライチの間をノートが行き来する日が始まった。
紙の上での逢瀬を楽しんだ。
ライチは俺について執拗に調べて回った。
俺が忘れていた様な事も、調べて感想文に書いていた。
俺は目眩にも似た快感に包まれていた。
俺の言葉を愛してくれる人間がいる。
それだけで俺は救われる思いだった。
例え俺が皮膚炎で朝を呪う様な人間であっても、彼女は俺の言葉を愛してくれた。
 
ノートを渡す仲介者であるヨシトは、文には疎い面がある事をライチは知っていた。
だから、ライチはヨシトには分からない様に、それでも俺には分かるように書いた。
薄い大学ノートの上での逢瀬は続いた。
脳内麻薬が溢れる音が聞こえた。
俺はライチの言葉に中毒した。
ライチの言葉が無ければ、手が震えた。
俺はライチに惹かれていた。
ライチの言葉は優しかった。
俺は、優しくされたかった。

チャイムが鳴った。授業は終了した。
しかし世界史の教師は、チャイムが鳴り終わるまで説明を諦めようとしなかった。
退屈になった俺は、携帯を取り出してヨシトにメールを送った。
「ライチから感想文って貰えてる?」
教師の声が一段と大きくなる。俺は携帯を机に押し込んだ。
手の中で携帯が震えた。
教師は言いたい事を言ったのか、満足げに頷いて教室を立ち去った。
俺は携帯を取り出した。ヨシトから返事が来ていた。
「お前に、ライチのアドレスと携帯番号教えるよ」

「はぁ?」
俺は声に出して呟いた。
まだ一回しか会った事も無いのに。
だが、紙の上での逢瀬が現実になるのかも知れない。
そしてヨシトはそれを知らない。
俺は、小さく震えた。

***

随分経ってから、この時の事をヨシトに聞いた事がある。

この時、ヨシトはライチとの仲が険悪な時期になっていたらしい。
そして少しの間、距離を取る為に誰かに相手をさせようとしていた、と言っていた。
そこで白羽の矢が立ったのが俺だった。
俺である理由は、未だにヨシトは喋ろうとしない。
恐らく理由は無いのだ。
ただ、俺とライチがノートの交換をしていた。
それだけで十分だったのだろう。
彼にとっては、重い荷物を少し預かって欲しいだけの事だった。

***

俺はよくわからないまま、ライチの番号とアドレスをヨシトから聞いた。

その日、俺は名前を変える事を思いついた。
友人の彼女に惚れると言う、倫理的に見て良くない事をしている自分に、
そして今後、一線を越えるかも知れない期待と咎を含めて、
「言葉」によって「戒め」を与えるべく、「憂治 誡」とした。

真夏の盛りを過ぎても、いまだ暑い日は続く。
だが、俺の心には強い風が吹いていた。